7月は、「文月(ふづき、又はふみづき)」。
その意味・由来・語源には諸説あるようで、調べれば調べるほど出てくるので驚きました。
なかでも、「文被月(ふみひろげづき、ふみひらきづき)」が略されて「文月」に転じたという説は有力らしいですが、この文被月とは書道の上達を祈って、短冊に歌や願い事などを書く七夕の行事にちなんだ呼び方だといわれているそう。
でも、奈良時代に中国から伝わった七夕は古来日本にはなかった行事ということで、疑問視する声も。さらに、短冊に願い事を書くようになったのは、江戸時代の寺子屋から始まったとされる説もあるので、謎が深まります………。
「文月」は別名も、盛りだくさん。
収穫が近づくにつれて稲穂が膨らむことから「穂含月(ほふみづき)」「含月(ふくむづき)」、稲穂の膨らみが見られる月であることから「穂見月(ほみづき)」。
他にも、暦の上では秋となることから付けられたと言われる「初秋」「涼月」。
三か月ごとに季節を区切る考えかたでは、旧暦の7月は秋!とはいえ、およそ新暦8月と思えばこれは実感するのがむずかしい気もします。
季節の先取り的な風流心だったのか、亜熱帯地方かというくらいのうだるような暑さが襲撃してくる現在とは違って、朝晩に涼風が吹き抜けていたのか………。
七夕から付けられた「七夕月」「七夜月」「愛逢月」。
それから、植物の名前から付けられた「女郎花月(おみなえしづき)」「桐月」「蘭月」など……まだまだ嘘のようにたくさんありました。
歌を詠む時々で風情や想いを込め、肌で感じ、考えられ付けられた月の名前たち。
密やかな恋の季節を想う名前から、花の名前、収穫を楽しみに待つ気持ち、吹き抜ける涼しい風を感じる名前など、自らを取り囲む状況にとても敏感で貪欲だった時代。
自分が入れた予定に追われがちな現在とは、まるで別の世界です。
つい先日のこと、「マインドフルネス」についてのインタビューを受けました。
最近では美容やライフスタイルに関するインタビューを受ける際に「マインドフルネス」についての質問に及ぶことが多く、様々な人たちの間で関心が高まってきているのを感じています。
私が感じている「マインドフルネス」とは、判断や批判なく、自分の心と身体そして身の周りのことに完全に意識を向けることで、自身で心を穏やかに鍛えていくこと。
「マインドフルネス」というワードではありませんでしたが、私が同じような状態を意識したのは25歳の時。
明らかに自分のキャパを超える量の慣れない仕事と格闘しながら、なんとしてでも120%以上達成したい!という気持ちだったので、数年間もの間、心が休まることがありませんでした。
遥か先の目標から逆算したポイントに想いを馳せ、意識は先に、先に。イライラや自分への失望は積もる一方で、自分も他人も許すことができない。
もちろん、「今、ここ」を楽しむこともあったとは思いますが、大半は多忙にかまけたり、大きすぎる夢を追いすぎて、自分がそこに存在しないという状況でそこまでの人生の大半を生きていたように思います。
気をつけないと、自分の心は「今、ここ」からチェックアウトし「過去」や「未来」、そして「妄想の世界」に旅立ってしまっているかもしれない。
それに気がついて、自分の心と身体に向き合うことにしました。
とは言っても、特に大それたことをしたわけではありません。
自分の心と身体、そして身の周りを少しずつ意識するようになると、今まで取るに足らないと思っていたような小さなことが、どんどん視界に入ってくるようになったのです。
ピラティスとヨガ、軽い瞑想をするようになり、食事は我慢したわけではなく意識せずビーガンになっていました。
できるだけ自然と触れ合う時間を持ち、経験したことのないことを率先して行うように。
そして半年ほど経つと、怒りという感情がほとんど姿を現さなくなりました。
「今、ここ」にしっかりと立ち、あらゆる状況で初心に戻り、自らを取り囲む状況に敏感で貪欲でいないと、あっという間に残りの人生も私不在のまま過ぎてしまう!そう思い、それからはできるだけ、そう意識するようにしています。
昔の人のように、日々の中に何気なく佇む美しさや見逃しがちな変化を感じ、ほんのりと心が温かくなるような詩が読めるような心持ちでいられるといいですよね。