南山城村「童仙房」で作陶している清水善行さんの工房兼ご自宅にて、数日間研修合宿をさせていただきました。
研修と言っても、もちろん陶芸家を目指しているわけではなく、自分の目の前に見えているものだけでなく見えていないものを感じたい、感じられる想像力を身に付けたい、取り戻したいというのが理由の1つです。
清水さんの作品の奥にある、表面には見えていない考えやストーリーを知りたかった。
数ヶ月前からご調整いただき、近づいてくる高い空を想像しては期待で胸を弾ませていた、そんな時に鷲田清一さん著作の「想像のレッスン」という本に出会いました。
この本は、一つのテーマを巡って哲学的に論じているものではなく、著者が同時代に出会ったアートにまつわることで、自分の想像力がどう揺れ動かされたかを綴ったものです。
随分前から、好奇心が旺盛な自分と、それとは裏腹に思考が停止してしまう両極端な自分を感じていました。
“得意なことを続けていくこと、好きなことを追求していくことのほうが人生も楽しい。”
“見たくないものは、後でいい。”
そんな風に、自分の興味がそそられない事柄に対しては受け流してきてしまったんだなぁと。
見えていたのに、見ていなかったこと。
「想像のレッスン」にもありましたが、私にとって食はその典型です。
私たちは食べるために、必ず何らかの命をいただいている。
そのなにかが、どんな経緯で、どんな人たちが携わり、どのように形を変えて自分の手元に来きたのか。
それらを全てクリアに知りたいと思うけれど、全てを可視化したものを直視できるかどうかは疑問です。
▲▲市で〇〇さんが育てた鶏、と書かれていたら想像がつきやすい。
でも、実際にいくつかの養鶏場に行ったことがあるわけでもないので、極端の安価なものはどういう経緯でその値段がつけられているのかは想像ができない。その上、私は動物を自らの手でさばいたことがない。
見たくないものを見ないで済むようにしてくれるシステムが、私たちの周りのあらゆるところに張り巡らされています。その存在すら忘れてしまほどに、スマートに。
食だけでなく、政治や経済……すべてのことに対しても同じこと。
このHINATAは、自分探しの旅ではなく自分の居場所を見つけるための旅のようなもの、と記しました。
今の自分の概念を消して、こころのたなびきを感じる、そして社会生活、個人生活をする上で本当に大事なものはなにかを考えること。
あるいはいろんな出来事や制度の根拠になっているものはなにか、なにが根拠になっているのか、それがなぜ成り立つのかを常に意識的に考えていけたら