「時間が過ぎ去っていくのではない。我々が過ぎ去っていくのだ。」
「時の名前」(三枝克之 編集・文 角川書店)という本を手に取り、さあ、読み進めようかといペラペラとページをめくっていた時に、この言葉が目に飛び込んできました。
私の座右の名とも言える言葉の1つに「時間は未来から過去に流れている」というのがあります。これは、結果が変われば過去がもつ意味が変わる、だから過去に起きた事実は変わらないけれど、だからといって執着する必要はない、物事は解釈次第であるという言葉。これをいつも心に置いています。
この言葉はアビダルマという仏教の教えなのですが、あまりに気に入りすぎて愛猫の名前をアビダルマにしたくらい。諦めない限りはいつまでも終わりじゃない、失敗ではないと、いつでもどんなマインドの時も取り乱さずに思い出せるように。フルネームで呼ぶことはなかったけれど。笑
「時間は未来から過去に流れている」というのは、流れているのは時間で自分たちはひと所に止まっているイメージ。「ゆく川の流れは絶えずして」の方丈記で綴られた鴨長明の無常感とは意味が違うけれど、流れていくものの中に自分が止まっているのは同じこと。でも、「時間が過ぎ去っていくのではない。我々が過ぎ去っていくのだ。」という言葉は、私の座右とは真逆のことを言い表しているようで、本質は似ているのではないかと思うのです。
先日、祖母が穏やかにこの世を去りました。
102歳、大往生でした。
亡くなる数日前に、「どうしても今会わなくては!」と言う気持ちにかられて、新幹線のチケットがほぼ完売している中、色々とリスケしていただいて会いに行くことに。
もう長く持たないかもしれない、と言うことで最期に着せる着物を選びに祖母の家へ。そこで目にしたのは、子供や孫が生まれた時からのたくさんの家族の写真でした。
アルバムは埃をかぶり、写真はカビが生えたり変色したりしていましたが、ページをめくるごとに今まで感じたことのなかった祖母からの愛や、血の繋がりを目の当たりにすることに。私たちが送った手紙や年賀状なども丁寧に保管されていたのです。
それを見ると、地球という星の上でこうして命をつなげながら、私たち人間は切磋琢磨しながら、時に何かに争いながら過ぎ去っていくものなんだと感じずにはいられませんでした。
友達もいない土地に嫁ぎその土地で頑張って生きてきた祖母の今までの人生を想い、幼い私と祖母が写っている場所をその時以来にいくつか周ってみることに。
若い時は田舎が嫌いで、その土地のこともあまり知らなかった私にとって、その時間がはじめて祖母と向き合えた時間のように感じました。