結晶

うなぎの寝床のような縦に長細い工房!失礼ながらそれが第一印象でした。少し時間が経ってしまいましたが、Kiwakotoのパートナーを見学させていただくプレスツアーにて京友禅の墨流し染めの第一人者 薗部正典さんの工房にお邪魔させていただきました。

 

 

薗部さんはは、1983年三重生まれ。1956年伝統工芸技術功労賞受賞者の染色工芸作家小倉好三氏に師事。1970年に独立、薗部染工を設立。水に溶けにくい染料の開発によ理、さらに効率的に美しく染めることのできる墨流しの技法を確立されました。

 

 

「人に真似されないようなものをつくろう」ということを考え、常に革新的なチャレンジを続け、2017年に黄綬褒章を授与されています。お話をお伺いしていても、頭が柔軟なことに一番驚きました。

 

 

工房の玄関には賞状がずらりと並んでいます。

 

 

 

 

墨流し染め原点は平安時代まで遡ります。その起源は川の水面に墨をおとし、流れによって生まれる模様の変容を楽しんだ9世紀頃の宮廷遊びといわれています。布に写す技術が始まったのは、江戸時代からで、それまでは和紙に写し取るのが主流だったそう。

 

 

『新潮世界美術辞典』には、墨流しとは以下のように解説されています。

 

 

(1)料紙装飾の一種。水面に墨汁を流し、その上に斐紙(雁皮紙)を落として、墨の流れを写し取った紙。墨流しは『古今集』第 10 巻にみえているが、遺例では平安後期の『西 本願寺本三十六人集』の料紙に用いられているのが最も古い。江戸時代には墨の代わりに藍を流した藍流しや墨・藍・紅などを流したものも出た。なお染めや蒔絵などにも同様の技法がある。

 

 

(2)陶磁器の表面に、あたかも墨を水に流したかのような澱みない木目模様をあらわす装飾技法。流泥ともいう。磁州窯系の作品が名高いが、化粧泥の中に鉄絵具を滴下、 攪拌して器表に流し、ごく薄く透明柚をかけたもので、練上手と同様の効果をあげている。

 

 

京友禅の墨流し染めもまた、水面に墨または顔料を油と交互に垂らして模様を作り、その波紋の模様を写し取る染め技法のこと。違いは、紙ではなく布に写し取るというところだけです。Kiwakotoでは、墨流し染め技法で模様を皮に移してバッグやドライビングシューズなどを展開しています。皮は1枚1枚の形も違うため取り都合が悪く、価格も高いために失敗するとリスクも大きいと難しい素材です。

 

 

長細い工房には特注の長細い水槽が2つあり、そこで手分けして様々な模様を作り、その模様をさっと瞬間的に写し取るのですが、その手際の良さには驚きました。失敗は許されないのですが、失敗する気配など全くありませんでした。

 

 

墨流しの歴史は、中国の陶磁器の流し絵模様から日本に伝わったといわれています。また一方で、この技法は中国からシルクロードを通りトルコでエブルという装飾技法として発展したのち、17世紀にヨーロッパに渡りマーブリングになったとも。手法は簡単なので、世界各地に広がったのだと思いますが、模様の精度には個性がかなり出る難しいものだと思います。

 

 

 

データがあればインクジェットでいくらでも同じものがプリントできてしまう今の時代に、失敗のリスクをも抱えて、あえて1つ1つ手作業で作り上げていくということの意味とその存在価値。

 

 

私は、最高のラグジュアリーは、オートクチュールだと感じています。工芸の現場を見学させていただいたり、工芸に触れた時にいつも感じること。

 

 

 

風船で柄をコツコツと染め上げた、とあるメゾンの生地も見せていただきました。洋服のデザインをしていた時代には、こんなに素晴らしい生地があることを知りませんでした。今、思うと残念なことだけれど、当時このような価格帯の生地を使って服を作ることは難しかっただろうし、日本における生地の歴史や作り方、紡績までを知ろうとする心の余裕がなかったのも事実。

 

 

 

 

かつては、ほとんど全てのものが手作業で作られていた、というより手作業でしか作れなかった。大量生産できるようになったけれど、本質的な「ものを作る」ということのその目指す先は、ずっと遠い過去に戻るような気がします。私たちは、輝かしい過去に招引されているようだと思うのです。

 

 

先日読んだ長谷川櫂氏著「俳句的生活」の中に、

 

「過去に理想の時代があって手本とされる聖典がある。子どもから老人まで聖典を繰り返し読んで、そらんじ、まねることで一歩でも聖典に近づこうとする。手本となる過去こそが未来であり、未来とは過去のことに他ならなかった。和歌俳諧にかぎらず絵も物語も書も芝居もこうして創造されてきた」

 

という部分があります。テクノロジーはどんどん進化しますが、理想となる元となるのはやはり過去のものなのだなぁと感じます。

 

 

長谷川櫂氏の「日々の暮らしを結晶化した美しい日本語に再会しよう」という言葉と同じ、日本語だけでなく美しい日本にいつでも再会できますように。

 

 

(kiwakoto での薗部さんのインタビューはこちら))

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